昭和48年6月10日 月次祭
四神様の御教えの中に、「氏子、おかげは、神から出ると思うな。氏子の心から出るのだ」と。教えておられる。という事は、おかげは和賀心にありと、教祖様が仰っておる事だと思うです。おかげは和賀心にあり、ね。和賀心にならせて頂くという事に、いわば、おかげがあると、こう言うのです。なるほど、神様を拝んだからと言うて、おかげ頂くのじゃない。自分の心から、ね。
そこで、神様を拝む稽古という事よりも、自分自身の心を拝めれる様になる稽古という事が言えます。ね。自分自身の心を拝ませて頂けれる信心。ね。なら、自分自身の心を拝むという事はです、ね。やはり、信心の稽古をした上にも、させてもらわんと、有難いことになってまいりません。拝めない、ね。皆さんも、色々、体験があろうと思うけれどもです。本当に、自分の心に手を合わせたいような時がある。そういう状態を、和賀心と言うのである。だから、そういう心を育てていくという事が信心だという事。
平穏無事で、おかげを頂いておると、ね。本当に信心のおかげでと言われる時には、まぁ、これは、おかげですけれども、ね。そういう風に、問屋が、何時も卸してくれれば、問題ないのですけれども、ね。降ることもあれば、いわば、照ることもあると。そういう時に、有難いと、それを受けられれるだけの信心を身に付けておかないと出来ない。
今日は、先ほど、久富先生が、前講でお話しておられましたように。堤清さんの、正式に、いわば、改式したいと。けれども、告別式は、仏教でしてありましたし、十日祭、二十日祭も、勿論、してはございませんでしたので、もう、こもごもの内容を持ったお祭りでも、六十日からになるのでございますけれども、神様が、今日は、偲び手と仰いましたから。今日は、偲び手で奉仕させてもらた、ね。まぁ、生御霊とでも申しましょうかね。新御霊の時には、五十日祭を終えるまでは、まぁ、偲び手をもって致します。
私は、今日、本当に有難いと思わせて頂いた事は、もう、御霊様が、今日の日を待ちに待ち焦がれておられたような感じ。もう、今日、例えて申しますとね。もう、今日で自動車が、動かんごつなるとこじゃった。もうガソリンが切れて、もう、ぎりぎりのとこやったと言うのに、給油をしていただいた、ガソリンを入れていただいたように、有難いという表現を致しました。御霊様に。ね。
今日の、御霊様のお供えに、卵が一台ありました。それを、私は、あの、見せていただいとりましたら、御神願に頂きますのは、そのちょうど、卵のお供えがしてあるところに、ニンニクがいっぱい、お供えしてありました。ね。私は、卵のお知らせと言うても、まぁ、あの、卵でもすすって、元気を出せというくらいですからね。一時的であっても、なかなか、元気の出る、元気を出している時のお知らせを頂くんですけれども、ニンニクと言えば、こらもう、いよいよ、その、まぁ、何というですかね。強壮剤の中には、必ず、ニンニクが入っておると言われるくらいに、ね。身体が、元気になる。ね。ところが、これは、その、なんとも言えん、悪臭が致します。そらもう、本当に、あのニンニクの臭いと言うのは、それこそ、鼻持ちならない匂いですけれどもね。あの中に、慣れてしまえば、また別です。私共は、北京におりましたが、もう始めは、電車の中に乗った。もう、シナ人ばっかりですからね、もう、ニンニクの匂いで、いっぱいなんです。立ち込めておるという、電車の中が。もう、本当に、閉口しましたけれども、こちらがニンニクを頂き出しましたら、そのニンニクも、臭い事は無い。むしろ、何と言うでしょうか、ね。もう、何と言うか、郷土臭と言うでしょうかね。もう、国の匂いのような感じです。シナ行ったら、ニンニクを嫌うたら、生活が出来ない。また、味も、とても良いです。ニンニクを使いますと。味噌のおつゆなんかにでも、ニンニクを刻んで入れて御覧なさい。もう、味の素何か要りゃしません。ただ、臭いがするだけと言うほどにある。勿論、そして、身体にも効くというわけなんです。ね。いわば、臭いけれども、力が着く、ね。いうならば、苦しいけれども、または、悲しいけれども力がつく。苦しいけれどもというところなんです。ね。ですからその、苦しいこと、その臭いことと言う事をです。やはり、神様のおかげと思わなければ、それは、いわゆる、鼻持ちならない、とても、そばにも寄せ付けたくもない事になるのです。ね。
久留米の初代の石橋先生が、小倉で、ね。何か、お大祭の後の、御直会か何かの時に、それこそ、偉い先生方がいっぱい座っておられる、その満座の中で、桂先生が、石橋先生に向かって仰った。「石橋さん、あんたんとこの息子は、馬鹿じゃな」と仰った。ね。もう、間髪を入れずに、石橋先生が仰ったこと。「親先生、おかげで信心が出来ます」と仰った。ね。「石橋さん、でかした」と言うて、一番口に、杯をさされたという話が残っております。私は、こりゃ、作り話じゃないと思う。本当だと思う。ね。石橋先生の心の中に、なるほど、子供が、普通ではない。そのために、親が、それこそ、人知れず修行をしよる。人知れず信心を、特別の修行でもなさっておられたに違いはない。ね。だから、光男先生と仰いました。光男のおかげで、信心が出来る。信心を揺るめんで済む、油断せんですむと思う手おられたに違いは無い。ですから、間髪を入れず、それこそ、顔色が変わる段じゃない。「親先生、おかげで信心が出来ます」と。桂先生も、やっぱ、さるもの、ね。石橋さん、でかしたと言うて下さった。ね。そのことは、いやな事、困った事、難儀な事、恥ずかしいこと、ね。それこそ、人の、例えば、噂などを気にかけておったら、ね。いちいち、言い訳をして回りたいような事であっても、ね。その事を通してです。やはり、信心が出来ておらなければ、おかげで信心が出来ますという事にならない。
私は、今日、皆さんにね、その、おかげで信心が出来ますと言うところまで、信心を進めておかなければ、値打ちは無いと思うです。ね。本当にこの、苦しいところから、もうとにかく、何時、解脱できるだろうか。何時おかげが頂けるじゃろうかと言う様な思いでは、これはね、そういう思いを、ずーっと、持っておるだけでも、おかげが遠くなるです。ね。だから、金光教では、そこのところは、お取次ぎを頂いて、もう、お預けしていく、お任せしていくという生き方。これはもう、素晴らしい、私は、おかげを頂く手立てだと思うですね。けれども、お取次ぎを頂いて、お願いをしながら、やはり、心配を持って帰るという様な事であっては、ね。私は、おかげにならん。本当に、お取次ぎを頂いたら、苦しいことでも、辛いことでも、お取次ぎを頂いて、後は、言うならば、神様に喜んで頂けれる御用に打ち込ませてもらうという信心。ね。同時に、その苦しいことを苦しいと感ずるから、修行も出来る。ですから、その、臭いけれども力がつく。苦しいけれども、悲しいけれども、おかげで信心が出来ますという信心にならなければ、御霊の力もつかんだろうし、ほんなら、今日、堤さんところの場合なら、遺族の者の力もつかん。ね。
私は、今日、お祭りを仕え終わって話たんですけれども、ね。四神金光様が、御神勤十年、大変なお徳を受けられたお方であった。いわゆる、金光様の、二代金光様の時代に、北は北海道、南は、九州の果てまでも、御道が広がったほどしの、いうならば、力を持っておいでられた金光様でしたけれども。四十という若さで、お国替えになった。お国替えになった時に、お兄弟を呼ばれてから、もう、攝胤が十三になりますから、もう、あれで出来ますと。攝胤を盛り立てて、攝胤に座らせてくださいという事を願われた。ね。世間では、色々、若死にと言うて言うかも知れませんけれども。ね。後を見ておって下さい。攝胤を見ておってくださいと仰ったという事でございます。ね。
ですから、例えばほんなら、清さんの場合でもそうだ。はぁ、あがしこ信心しござって、どうして、しかも、合楽の教会で、どうしてと、まぁ、言うたり、まぁ、皆さんも思うかも知れんけれども、ね。先を見とってくださいと、言えれる信心にはです、ね。ただ、あの、信心に、言うならば、臭いけれども有難い。悲しいけれども、また有難い。おかげで信心が出来るよと、家族中で言い合えれるような信心にならなければ、おかげにならん。私の方だって、同じことであった。ね。七月の三十日という日に亡くなった。まぁ、十五日待っとりゃ、終戦である。しかも、七年間、武運長久を祈りに祈利、願いに願って、もう、今日帰るか、明日帰るかと言うて待っておる。そこへ届いたのは、広報であった。まぁ、十五日、神様、どうか成りませんかと言うような感じがするんですけれども、ね。私共の信心が、おかげでそこに、一歩たりとも、後ろへ緩んではいなかった。苦しければ、苦しいほど、神様へうち向こうて行った。私は、その次から、御本部の月参りを始めた。ね。もう、理屈抜きにして、御本部から帰ってくるときには、有難うして、有難うして、わけは分からんけれども、有難かった。ね。
どうしてなどという様な気持ちが、さらさら無くなった。私は、その時分に、はぁ、これが、御神徳だと思うた。ね。臭いけれども、悲しいけれども、苦しいけれども、ね。有難いというところまで、私は、信心は、していかなければ、おかげにならんと思う。ね。いわゆる、本当のおかげにならない。そこを通り越えて、思えば思うほど、あれを思い、これを思い有難い。勿論、その間の間には、自分の心も、段々、いうなら、渋があるなら渋が抜け。灰汁があるなら灰汁が抜けて、おかげで、自分で自分の心を合掌したいような心が、時折ではあっても、頂けれることの喜びと言うのが、信心の喜びと言うのじゃなかろうか。お願いしとって、おかげ頂いて、有難かったという、その喜びは、私は、信心の本当の喜びでは、信心によって頂く、おかげではあっても、信心の喜びとは言えないと思う。ね。そういうおかげが、頂けれるのが信心だという訳です。
先日から、ある方が、もう、夜分でした。休んどりましたら、お願いに見えました。大きな、まぁ、大変な大きなおかげを頂かなければならないこと。もう、本当に、神様の御神意ちゃもう、不思議なこっじゃあると、ね。とにかく、土地を買いたいとこう言う。お願いをしてやった。先生、どちらの方角に買わせて頂いたなら良いでしょうか。探したなら良いでしょうかち言うこと。そしたら、東南のほうを探しなさいち言うこつじゃった。ところが、先生、もう、それこそ不思議な事だった。私の方の里の父が、大変懇意にしておった。もう、何十年と言う間、疎遠になっておる方が、東京に居られる。その方が、たまたま帰ってきて、そこに、広々とした、その空き地があるから、どなたのかと言うことであったら、その人の事じゃった。ちょうど、その人が、東京から帰ってみえて、まぁ、お宅なら、売っても良いという事にまでなってきた。ところが、やっぱり、福岡辺りのことですから、随分、やっぱり、一千万近くからの金額なんです。勿論、それは、あるわけじゃないから、銀行から、借りもしなければならない。ね。
私は、本当に有難いと思う。その方が最近、株をしよった、ね。そら、濡れ手で粟のつかみ取りの気になるなと、神様が、仰るのに、そういう事をして、そらまぁ、そりゃ、一獲千金を、夢見てではないかも知れんけれども、ね。それで、ご神意を頂いて、買わせていただいたのは、間違いなく良かったけれども。向こうから、言われて、買えと言われる。こらもう、絶対だからと、買うたのは、何時も損であった。そういう時にです。銀行のほうから見えて、○○さん、もう、そういう事は止めなさいと、ね。そういう事ではね。とにかく、百人のうち、例えば、五人か、十人かしか儲かりよらんとに、そげな事じゃいかん。ね。もう、いうならばです。あーたが、そげなこつ、するごたるなら、お金は貸さんよと言わんばかりの、銀行から、支店長が見えてから、今日見えて、そう言われました。もう、おかげでもう、すっぱり、その事を、思い諦めました。ね。ん、そりゃ、私も、言いたいと思いよったけれどね。そう言うてお願いをするから、私も、お願いをさせてもらいよったけれども。そうじゃいかんです。やっぱり、おかげを頂いて、力を頂いて、おかげを頂いた、信用を頂いてのおかげでなからにゃいけん。ね。
それから、また金策のことも、家を買うことになれば、お願いをしなければなりませんから、お願いをさせて頂いて、もう、直ぐ帰られました。帰られた後に、もう、夜中のことですから、ここへ出てから、その事をお願いさせてもらいよった。そしたら、ちょうど、映画なんかで、出てまいります時に、その、まぁ、娘なら娘が、かどわかされたかなんかですかね。それをあの、こう行くでしょう。それでその、娘は売ったからその、侍がですね。娘を小脇に抱えて、そして、この、逃げていこうと思ったけれども、もう、その時には、周囲から、沢山の、その、取り巻かれておる。ところがその、取り巻かれておるけれども、刀を、こうやってするけど、まぁだ、その、鞘を抜いとらんのです。ね。ですから、こらまた、せっかく、ここに、抱きかかえた、この人をはずさなければ、鞘は祓われんでしょうが。そういう場面を頂いた。ははぁ、なるほど、例えばほんなら、それを、自分の小脇に抱きかかえるところまで行くけれども、そこには、邪魔が入ってくる。ほんなら、その邪魔を、切り払うという事は、鞘の付いたままでは、もう、せっかく頂いたものも、そこに置かなければ出来ない。ね。だから、私は、いわゆる、抜き身、いうならば、真剣、ね。こういう特別な、大きなおかげを頂くことの時にはです。やはり、お願いしとるけん良かろじゃなくて、真剣になって、願わなければ、それが成就にならない。ね。
例えば、神様が、御神意を頂いて、しかも神様が、東南と仰ったから、東南に、ちょうど、とても、探したっちゃ無いごらるところがあった。しかもそれが、何十年前の、里のほうのお付き合いの方であった。だから、もう、向こうの土地の事は、忘れてあるごたる土地じゃった。だから、値段も、折り合いが、まぁ、あんたが、買ってくれるならば、まぁ、勉強しようという事にもなって、大体、話の線が出てきた。ね。それには、けれども、金があるわけじゃないから、銀行から借らなければならない時にです。私はその、銀行から、借らなければならない時に、例えば、銀行の支店長がです。もう、この人が神様だと思う。こういうことでは、おかげにはならん。濡れ手の粟のつかみ取りのような、浅はかな信心では駄目。ね。そこで、支店長を使うて、あんたが、そげな事をするごたるならば、あんたには、お金を貸されんばいばいと言わんばかりの、例えば、忠告を受けたことによって、その方が目が覚めた。ね。そうして、そこから、おかげを頂いていく道をです、ね。どんなに考えても、もう不思議といや、不思議である。ね。最近、読ませていただいておった、その、四次元の世界からの指令を受けなければ、出来ることじゃないです、こういう事は。ね。三次元の世界が、人間の世界であるならばです。人間よりか、もう一度、ね。高いところにおる人の指示を受けなければ、分かることでも、出来ることでもないけれども。ね。それが、ほんなら、本当に、おかげになってしまう。そういう働きを頂いておる。ね。ですから、それを本当に、十全たらしめると言うか、本当のおかげになすためにはです。本気で、それに信心をさせてもらわなければいけない。真剣に、おかげを頂かなければ、せっかく抱いたやつを、また、外さんならん事になってくると。ね。だから、おかげを頂くと言うてもです。合楽の場合は、まぁだ、そういうおかげなんです。ね。
先ほど、福岡の池田さんが、もう、それこそね。鯛のごたる大きな鯉が、飛び出しておる。もう、今、合楽でお徳を受ける、力を受けるというならば、もう、今が受け時という様な時である。ね。例えば、ほんなら、これが、阿倍野の教会辺りのように、そう大して、変哲な事もない、その教えが、どうと言うう事もないのだけれども、どんどん、どんどん、おかげを頂くという、ね。ところが、合楽の場合はです、ね。例えば、ほんなら、例えば買うなら、南東とまで、場所まで教えていただいておる。しかも、金策の面まで、道を開いてくださっておる。しかも、自分が、心得違いをしておるところは、もう、それこそ、神様が、わざわざ来てから、ね。そういうことをするならばと言われる様な忠告を受けて、始めてそこに。思いが至った時に、ね。だから、お金は出来そうです。土地も、幾ら幾らまでなら良い。そこまで出来た。そこで、まぁだ、取引が出来ない前にです。今度、参ってきた時に、その事を、私は伝えさせていただこうと思いよりますけれども、ね。そんなら、そういう、例えばです、自分の力量以外のおかげを頂かせて貰うという様な、大きな願いを持って居るのならばです。ほんなら、真剣に、一つ、神様にうち向こうて来るという事は、中身を頂け、力をいただけと言うことだと思うのです。
その力と言うのが、只今、私が申しますように、ね。苦しいけれどもです、ね。有難い。いうなら、あんたんところの息子は、馬鹿じゃなと言われてもです。ね。おかげで信心が出来ますと、その事に、本気で取り組めれれるほどしの信心を、神様は願い求めておられるのです。ね。そこが分かった時に、私は、信心ちゃ有難いなという事が言えるのじゃないかと思うのです。ね。特別のおかげを頂きたいなら、やはり、真剣に、特別の信心も、修行もさせてもらわなければいけません。神様は、それこそ、楽に、ね。もう、そこだけだったら、合楽の信心は、低級と言われたっちゃ仕方がないと思うですね。どっちの方角に買わせて貰うたら良いじゃろか、ね。そしたら、はっきり、東南と頂いた。そこにあった。そしたらまた、そこの名前が良かもん。とにかく、何とか、神様の神がついとる。だからもう、いよいよこら、御神意だろう。だから、確かに御神意に間違いない。神様が、下さろうとしておることも間違いないです。金策まで、神様が、道を開いて下さろうとしておる。もう、何からかにまで、条件は揃うたけれども、もう一つ、大事な事は、その条件にです、ね。本気で、信心にならせていただくという事が、足ろわなければです。よし、それを頂いても、また、外さなければならん事になってくると言うのです。せっかく、買うたべってんから、損して外したごたる事は出来んでしょうもん。ね。儲かって外すなら、まぁだ良かけれど、ね。それが、本当に、おかげになるためにです。いわば、真剣に信心に取り組め。ほんなら、真剣に取り組んどる間に、真剣に、その中身というものは、今日、私が申しました。臭いけれども、力が付くと。そら、朝参りでもするとは、眠たいけれども、やはり、おかげを、ね。そこに、辛抱力も出来るし、信心も、いよいよ、分かってくるし、血に肉になってくるし、時折ではあるけれども、わが心に合掌したいほどしの心も開けてくるし、この心を広げていくという様な、おかげの受けものが、完璧には出来なくても、そういう道に、自分の姿勢が向いてでなからなければ、私は、本当のおかげにならんと思うのです。ね。おかげを頂かせてもらわなければなりません。ね。
もう、そりゃ、本当に、おかげを頂かねば出来んですけれども、内容の無い、力の無いおかげであっては、また、外さなければならない。そら、ただ、外すだけなら良いけれども、外す時には、大変、苦しい思いをして外さなければならんのですから、本当に、苦労を、また求めるようなおかげではいけません。おかげはおかげとして、おかげの花が咲いて、実が実るという様なおかげを頂くために、内容を、今、合楽の場合はね。それこそ、水が減っているというか、ごちょごちょ言いよる。言うならもう、飛び出しておる。もうこりゃ、本気で頂くという気になりゃね。頂けるという時なんです。ね。本当に、願い通りに、ほらもう、信心も出来んのに、どんどん、おかげ頂くごつなったら、もう、力も何も無い様な、いうなら、ね。紙風船ふくらかしたような、おかげではいけません。ね。水ぶくれじゃいけません。ちょいとしたら、びしゃっと、引っ込んでしまうごたるおかげじゃいけません。ね。中身の充実したおかげ。それには、その力を、本気で頂かせてもらわにゃいけません。どうぞ。